第21回 活動報告

あおぞらの輪
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  • 【活動報告】第21回 あおぞらの輪

     人には、自分だけが持っている(だけどなかなか他人に打ち明けられずにいた)想いや考えがある。これを伝えたら、否定されるのではないか。誰かを傷付けてしまうのではないか。そんな恐れから、自分の心のうちに仕舞い込んでいること(もしかすると、無意識のうちに仕舞い込んでいる人もいるかもしれない…)があるように感じることがある。

     「倫理的にいけないものは簡単に排除してしまう」というある参加者の方の言葉がとても印象的だった。本当はもっともっと、多様な表現があってよいはずなのに、「なんとなく危ない」という理由で遠ざけられてしまう。実は、そんな内容が描かれている本は、どうしても見てしまうし、そんな本の存在があるだけで救われることがある、とも話されていた。その気持ちが少しわかる。ある程度の距離感は保ちながらも、なんとなく見てしまうものってある。そして、往々にして、他人に語りづらいものが多い。

     例えば、「犯罪」について、「不倫」について、「生や死」について、「政治」について、「宗教」について。その言葉を見るだけで、どこか危険な香りのするもの、触れてはいけない…と思わされるもの、身構えてしまうものが、実は世の中にたくさんある。

     最近感じるのは、「本」や「哲学」の中では、倫理的に「正しい・正しくない」、触れることが「好ましい・好ましくない」と簡単に二分できないような、事柄が山程扱われていること。そして、「本」や「哲学」を真ん中に据えるおかげで、人間関係の中で「安心して語ること」ができる範囲が広がっていること。自分事ではなく、あくまでフィクションという距離感も、実はよいのかもしれない。

     実は、「哲学対話」の中で、参加している皆さんが話題として挙げてくれているものの中には、このような、「ずっと関心はあるけど、なかなか他人に打ち明けづらくて、自分の中に秘めてしまうもの」がとても多い。本当は聞いてみたいけど、あまりにも距離が近過ぎるために、否定されることも、傷付けてしまうことも怖い。

     「本の紹介」や「哲学対話」をすることの意義は、そんななかなか語りづらいようなこと、「正しさ」や「倫理」の外にある出来事について、ある程度自分の中での「誰かに話せる範囲」を少しだけ広くして語れることにあるのかもしれない。そして、本当に考えてみたいこと、語ってみたいことを探すために、「本」や「答えのない問い」に触れることには意味があるのかもしれない、と感じる。

     今、感想を書いていてさらに感じたこととして、
    現実から少し距離が空いた非現実、自分ごとから少し距離を開けた他人事。そして、親しすぎる距離から少し離れた「間・他人?」の存在が、実は「本音を語れる、本音で聞ける」ための重要な要素やもしれない。「本音」に触れるために、「距離」が必要?なのかしら。

     今回はここまで😉

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