第60回 活動報告

あおぞらの輪
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【活動報告】第60回 あおぞらの輪

 友達の目線をどうしても気にしてしまう.上司や同僚の評価を意識し過ぎてしまう.SNSでは「いいね」の数にいちいち一気一憂し、LINEの既読無視にはひどく心を掻き乱されてしまう.「他人からどう思われるか」を気にすることがなくなったら、どんなに楽だろうか.そんなことを思ったことがある.今回は、いつも足繁く通ってくれているTさんの「人にどう思われているか気にしない できる?」という問いが哲学対話のテーマとなった.
 新規で参加してくださったOさんは、「これまで協力しながら発展してきた以上、人からの評価を気にしてしまうDNAが本来備わっているのではないか」という考えを場に出してくれた.(Oさん自身も、人からの評価がひどく気になってしまうことがあるらしい)そもそも協働することで生きてきた私たちは、「他者からの評価に気にしてしまう」という柵(しがらみ)も、同時に得てしまっている.
 なんとたまたま今回、私が参加したグループでは、↑の悩み?(問い?)に向かうための一助となるような本がいくつか出揃うこととなった.ただの偶然だが、なんだか運命的.紹介していきたい.

◉宮島未奈「成瀬は天下を取りに行く」(新潮文庫)※なんとグループの全員が読んでいた.
📚あらすじ(ネットより引用)
「島崎、わたしはこの夏西武に捧げようと思う」幼馴染の島崎みゆきにそう宣言したのは、中学二年生の成瀬あかり.閉店間近に控える西武百貨店に毎日通い、ローカル番組の中継に映るといいだした.さらに、お笑いコンビ・ゼゼカラでM−1に挑み、高校の入学式には坊主頭で現れ、目標は二百歳まで生きること.最高の主人公の登場に、目が離せない!
🌟本紹介(なるべく紹介してくださった方の言葉で…)
 突拍子もない提案をしてくる成瀬は、いつも「自然体」である.しっかり芯があるようで、自分に固執し過ぎていない.いつも「後悔のないようにやりたいことをやる」を徹底しているのに、あまり無理をしているようには見えないのである.やりたいことを持ちながら、目的に支配をされていない.なんだかそんな彼女に目が離せないのである.
 そんな彼女だからか、他者との距離感もまぁ絶妙で.突拍子もない成瀬の行動に、周りは奇異の目を向けたりするが、本人はあんまり気にしているようには見えない.それこそ、その時その時で変化する「やりたいこと」をすることのみに注力しているためか.また、他者と意見がぶつかった時や自分の意見を伝えたい時の伝え方が絶妙で、あと腐れなく、相手のことを尊重しながら自分の思いを伝えている.

◉吉本ばなな「TUGUMI」(中公文庫)
📚本の概要(ネットより引用)
 病弱で生意気な美少女つぐみと海辺の故郷で過ごした最後の日々.2度とかえらない少女たちの輝かしい季節を描く、切なく透明な物語.
🌟本紹介(なるべく紹介してくださった方の言葉で…)
 つぐみは「生きている」存在である.いつ死ぬか分からないのに、自分の感情に素直で、命を燃やすように生きている.わがままで口が悪く、人を振り回す存在であるにも関わらず、周囲の人間はどうしてか惹かれてしまう.汚さも、残酷さも、全部含めて彼女は「生きている」.
 つぐみに惹かれ、恋をしてしまった恭一がお世話になった人たち1人1人と握手をしている時のこと.つぐみの番になると、つぐみは「握手なんて求めたらぶっ●す。」という一言をかけ恭一の首に抱きつく.本当に食べるものがなくなったら、「平然とポチを●してやれる存在になりたい」「後悔も良心の呵責もなく、本当に平然としてポチがうまかったと言って、笑えるようなやつになりたい」というセリフなど.
 一瞬一瞬を「生きている」からこそ至れる境地というのだろうか.そんな彼女は「自分のことをどう思っているか」を気にしていたのだろうか.なんとなく、どうしようもなく気になってしまいながらも、それ以上に「素直に、自分らしく生きる」という選択を取らざるを得なかったのではないか.「生きる」ことに本当の意味で注力できた時、他者からの評価の優先順位は、相対的に低くなっていくのではないか.

◉宇野常寛「庭の話」(講談社)
📚本文より
 「家」族から国「家」まで、ここしばらく、人類は「家」のことばかりを考えすぎてきたのではないか.しかし人間は「家」だけで暮らしていくのではない.「家庭」という言葉が示すように、そこには「庭」があるのだ.家という関係の絶対性の外部がその暮らしの場に設けられていることが、人間には必要なのではないか.
 そして「庭」とは(私企業のサービスにすぎないSNSプラットフォームのように)、私的な場である.しかしその場は半分だけ.公的なものに開かれている.それぞれの「家」の内部と外部の接点としての外庭があり、そして家事や農作業、あるいは集団礼拝や沐浴の場としての中庭がある.
 「家」の内部で承認の交換をはんぶくするだけでは見えないもの、触れられないものが「庭」という事物と事物の自律的なコミュニケーションが生態系をなす場には渦巻いている.事物そのものへの、問題そのものへのコミュニケーションを取り戻すために、いま、私たちは「庭」を再構築しなければいけないのだ.プラットフォームを「庭」に変えていくことが必要なのだ.

🌟最後に
   対話の中盤ある方が、承認欲求という言葉がネガティブなニュアンスで使われることが多い、という考えを落としてくれた。なくすべきものとして簡単に切り捨ててしまってよいのかと。また別の方が、他者の気持ちを考えること・承認欲求をもつことが悪いのではなく、それらが過度になってしまうこと(〜し過ぎてしまうこと)が良くないのではないかと。過度になってしまうことで、本来自分が意図している行動とは別の行動を取り続けてしまうことで、何らかの心の不具合が起こってしまうのは想像に難くない。
「庭の話」で宇野さんもお話されていたが、現代は特にSNSなどのプラットフォーム上で、相互承認のゲーム(人間同士のみのコミュニケーション)が過熱し過ぎているため、本来もつことのできる相互承認以外の欲求をもつことができなくなっているようだ。完全になくすのではなく、結果として意識に登る頻度を減らしていくこと、なのかなと思う。
 成瀬やつぐみは、対話の場に来てくださった人生の諸先輩方は、他人の目線をいかにしてやり過ごしてきたのだろうか。いつかちゃんと聴いてみたい。