よい知的活動とは?
【つぶやき】よい知的活動とは?
前回の会の中で,よい知的活動の条件に,「自ずから」「主体的に」など,自らの内から生まれた興味・関心に基づくような探求・創作活動を「よい」と判断するような普遍性があることがわかった.自分の内から生まれた興味・関心とはどういうものなのだろうか.そして,そんな自らの内から生まれた興味・関心に従って知的活動を行うことは果たして「よい」ことと言えるのだろうか.
最近,縁あってスピノザに関する書籍をじっくり読んでいる.何度も読み返している「神様のカルテ」著者の夏川草介さんも,「暇と退屈の倫理学」の国分功一朗さんも,その著書で彼を言及している.これは読むしかあるまい….夏目さんや国分さんの根っことなる思想背景を知りたいと思ったからだ.そして,読んでみたらやはり面白かった.特に「自由意志」についての言及.私たちの行動の原因となっている「意志」という存在を仮定して日々の活動を行なっているが,この「自由意志」そのものにメスを入れた著作は,目から鱗の内容であった.「私が〜している」と思っていることは,実はさまざまな環境や過去の原因によって,生み出されている.「私がこう思う」としていることすらも,その実様々な原因の表現であるにすぎない場合が多いのだ.私たちは「意志」というものがまるで,自らのコントロール化で生まれたような気がしているが,それも,様々な原因が絡み合って生み出したものにすぎないとしたら,私たちは「私」のどこに「主体性」をみるべきなのであろうか.もしかすると,「私」と「私を取り囲んでいるもの」や「これまでの私」を洗い出すことで,「私」の「主体性」がどんな場所から生まれ,どこに向かおうとしているのかがわかるかもしれない.わかった後に,自分で選べることに「主体性」をみるべきなのかも.なんて変なことを考えている.
私が自らの「意志」なるもので,「〜している」と思い込んでいることに気づくこと.その先で改めて「選べる」状況に,「主体性」や「自由」をみるべきなのかもしれない.仙台のアーケードを通るとよくわかる.お店を運営する人たちは,ありとあらゆる工夫を施して,お客様にお金を落としてもらうように仕向ける工夫をしている.あたかも,自ら選んで買っているような気になっているが,それも果たしてどれだけ自分でコントロールできているかわかったもんじゃない.あらゆる商品が魅力的な配置で置かれている状況に対して,私たちは購買意欲をそそられている.もらった給料はこう使いたい…と思っていることすら一旦傍に置かれ,その場の力で私たちの「意志」は作られている.そんな時、ふとベンチに座り、私が買おうとしているものについて、今一度考えてみるとよいのだろうか.私はこの商品を買おうと思った原因は何なのだろうか.私はこのアーケードの何に、購買意欲をそそられているのだろうか.購入しようと思った自分は、どんな道筋を辿ってきたのだろうか.まぁ、そんなやついないのだが.
ある方が「あおぞらの輪」の中で,流されるように本を読むのが好きなのよね…と話されていた.誰かのおすすめを聞いて自分の心が動いたら、その本をとってみる.最初から「このために本を読む」と決めずに、その場その場の自分の興味やあり様に応じて、読む本を変えている.川の流れに逆らわず、心に身を委ねる様な選書.他者に対しても、自らの心に対しても「受動的」であるにも関わらず、なぜかそこに「能動的」な身体のありようをみた気がした.
「自らの心に(自然に)身を委ねる」という選書の在り方.この「受動」は、果たして「悪い」ことなのであろうか.
知的活動の「主体性」.私たちが気づかぬ内に「よい」と思っていたことについて、今一度考え直してみるのも面白いのかもしれないな、と思った.



