吉原と並ぶ都内の代表的な遊廓「洲崎パラダイス」の跡地を歩きます。

日程 2024年4月28日(日)
時間 19:00〜20:30
ステータス 募集中
開催エリア 洲崎パラダイス

活動内容の詳細

ブラタモリのように東京のいろいろな地域を散歩しながら、歴史、芸術、文化などを楽しむ20代30代中心のサークルです!

サークルのルールやよくある質問などはサークル説明でご確認ください。
https://tunagate.com/circle/70865

今後のイベント一覧はこちらです。
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下記アプリ「大江戸今昔めぐり」は江戸時代と現代の地図を比較して散歩することができます。見ながら歩くと面白いので興味ある方はインストールしてみてください♪
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■ 今回の内容
洲崎(すさき)は、東京都江東区東陽一丁目の旧町名。元禄年間(1688~1704)に埋め立てられた土地であり、古くは「深川洲崎十万坪」と呼ばれた海を望む景勝地であった。明治21年(1888)に根津から遊郭が移転し、1958年(昭和33年)の売春防止法成立まで吉原と並ぶ都内の代表的な遊廓が設置され、特に戦後は「洲崎パラダイス」の名で遊客に親しまれた歓楽街であった。三浦哲郎の小説『忍ぶ川』の舞台として知られる。

●近世
江戸時代初期ころ、江戸城への運搬船を通すための水路として、小名木川などの河川を整備し、その河口付近の湿地帯(現在の洲崎付近)をならした。この付近はまだ満潮で冠水する状態であったため、逆に水路と畦を配して養魚場が発達していった。寛政3年9月4日(1791年10月1日)、洲崎一帯を台風による高潮が襲い、周辺家屋を呑み込み多数の死者を出す大惨事が発生。幕府は以後、高潮に備えて洲崎一帯に家屋の建築を禁止した。その後も養殖業は依然として盛んに行われ、また潮干狩りの名所として発展していく。江戸後期には「東に房総半島、西は芝浦まで東京湾をぐるりと手に取るように眺められる景勝地」として発展し、初日の出の名所として人気を集めた。

●明治以降
1887年(明治20年)までに富坂(現・文京区)に東京帝国大学校舎が新築される計画が策定されたため、風紀上の観点から直近に存在した根津遊廓の移転計画が発足。しかし最大の歓楽街だった吉原に受け入れの余裕がなく、1886年(明治19年)6月に洲崎弁天の東側の広大な湿地を整備して移転することとなり、現在の東陽一丁目に洲崎弁天町が誕生した。1888年深川洲崎遊廓の開業式が挙行された。1893年(明治26年)に大火、 さらに1912年(明治45年)に1419戸が焼失する大火があったものの、大正時代末期には300件前後の遊郭がひしめき、吉原と双璧をなす規模の大歓楽街(吉原の『北国』(ほっこく)と同様に、『辰巳』(たつみ)の異名を持つほど)に発展した。

第二次世界大戦により深川地区は激しい空襲に晒されるようになり、1943年(昭和18年)には洲崎遊廓の閉鎖令が下され、跡地は軍需工場等となったが、1945年(昭和20年)3月の東京大空襲で洲崎はほぼ完全に灰燼に帰し壊滅した。

第二次世界大戦終結後から半年で洲崎遊廓は、大門通りより東半分(洲崎弁天町二丁目)に「洲崎パラダイス」の愛称で復興した。その規模と海の直近という風情から、吉原以上の人気を誇る歓楽街として隆盛を誇った。1956年(昭和31年)製作の映画「洲崎パラダイス赤信号」には、ロケにより往事の華やかな洲崎の様子が記録されている。その後、1958年(昭和33年)4月1日に施行された売春防止法により、洲崎パラダイスは70余年の歴史に幕を引き、静かな住宅街へと変遷していった。

■ 流れ
①集合
②散策
③時間になったら終了

※終了場所は「木場駅あたり」の予定です。状況により変更する可能性があります。



■ 参加方法
申込は下記サイトからお願いします。
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※登録後、クーポンコード「542290」を入力してください。初めて利用される方は利用手数料(500円)が無料になります。 入力しないと余分に500円を余分に支払うことになりますのでご注意ください!

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