第7回京都!奈良!寺社仏閣めぐり活動報告(中編)

京都!奈良!寺社仏閣めぐり
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さて京都寺社仏閣「膝栗毛」めぐりの一行は三条通を東に進み、白川沿いを北上すると巨大な朱色の鳥居が見えてきます。

平安神宮大鳥居
こちらはこれから参拝する平安神宮の大鳥居です。高さ24m幅18mあり、1929年(昭和4年)に完成しました。24mというと大体マンションの8階の高さにあたります。
ちなみに大鳥居には点検口があるんですよ。良かったら探してみて下さいね。
 
平安神宮応天門
さて、大鳥居をくぐれば平安神宮はもうすぐそこです。まず見えてくるのは平安神宮の応天門(おうてんもん)です。平安神宮は平安京の政務を執り行う建物「朝堂院(ちょうどういん)」を8分の5の大きさで再現しており、応天門はその「朝堂院」の正門にあたります。朝堂院は現在の国会議事堂のような役割を担った建物でした。

また、平安京の創建当初の応天門の扁額は弘法大師空海により書かれたものでした。ただ空海は応天門と書いて門の上に掲げた後、「応」の一画目の点が抜けていることに気づき、「はっ!」となったのですが、咄嗟の機転で下から筆を投げて点を書き加えたそうです。
そこから弘法大師のような書道の達人でも書き損じることがあることから「弘法にも筆の誤り」ということわざが出来たそうです。

それでは、応天門を入ったところで平安神宮の歴史についてご説明したいと思います。平安神宮は1895年に創建された京都を代表する神社の一つで、ご祭神には平安京(京の都)の「最初の天皇の桓武天皇」と「最後の天皇の幸明天皇」がお祀りされています。
さすが平安神宮、平安京の全てを物語る神社なのですね。
 
続いて建物などのご案内をしたいと思います。まず正面をご覧いただくと地面が1段高くなった部分があるかと思います。こちらは重要文化財の「龍尾壇(りゅうびだん)」と申しまして、平安時代には一部の高貴な貴族しか上がることが許されていませんでした。

そして龍尾壇の中央にある一際大きな建物が拝殿です。拝殿は平安京の朝堂院にあった「大極殿」を8分の5の大きさで再現した建物で、国の重要文化財に指定されています。平安京では大極殿で天皇の即位の儀式や国の主要な儀式が行われました。
 
また、大極殿の左右手前には2本の木が植えられており、向かって左側が「右近の橘」、向かって右側が「左近の桜」と呼ばれています。皆さまから見て左右が逆になっていますのは、大極殿にいらっしゃる天皇陛下から見て、左右を決めているためです。
また、橘の木の実は、現在で言うところもミカンなのですが、かつては常世の国に生えている伝説の実、非時香菓(トキジクノカクノコノミ)と申しまして、不老長寿の実とされていました。
 
大極殿からは左右に回廊が延びておりますが、回廊には145基の吊り灯籠が吊り下げられており、灯籠の4面には玄武、白虎、朱雀、青龍の四神が施されています。回廊の角の部分には楼閣が設けられており、向かって左側が「白虎楼」右側は「青龍楼」と呼ばれています。西の方角を守るのが「白虎」東の方角を守るのが「青龍」です。ここにも四神相応の思想が現れていますね。
 
また、当日は時間の関係で入ることが出来ませんでしたが、回廊の向こう側には「神苑」と呼ばれる有料のお庭が広がっております。神苑は近代日本庭園の先駆者「7代目小川治兵衛」氏により造営され、国の名勝に指定されています。神苑は四季折々の季節を楽しむことが出来ますので、また良かったら行ってみて下さいね。
 
最後に、平安神宮では毎年10月22日に「時代祭」と呼ばれるお祭りが開催されています。
時代祭は明治時代から平安時代までの各時代装束に身を包んだ約2000名の行列が約2キロに渡り、平安神宮から京都御所までを往復する一大歴史絵巻のようなお祭りで、「葵祭」「祇園祭」と共に京都3大祭の一つに数えられています。
 
それでは、ここで皆さまお待ちかねのお昼ご飯です!
今回は「西尾八ッ橋の里」にてお昼ご飯をいただくことにしました。いつも徒歩で付近を歩きながらお昼ご飯の場所を見つけているのですが、こちらは門が構えからして、料亭を思わせるような高級感が漂っており、下見に行った際もここは高いだろうな...と思ったのですが、店頭のメニュー表を見ると庶民的なお値段で、こんなお店を見つけることが出来てとてもラッキーでした。室内も高級感があり、立派な日本庭園や八ッ橋の資料室もありますので、皆さまも是非行ってみて下さいね。もちろん八ッ橋も買えますよ! 

(モグモグタイム…🍲😋)

(ワチャワチャタイム😌)
 
それでは、お昼ご飯も食べて満腹になった後は午後の部に参りましょう。

聖護院
まず、訪れたのは本山修験宗の総本山聖護院です。大阪の箕面市にある箕面の滝で有名な瀧安寺(りゅうあんじ)やあじさいで有名な京都宇治の三室戸寺(みむろとじ)は聖護院の末寺となります。
修験宗とは天台宗の流れをくむ修験道の一派で、山岳信仰の宗教で、修行者は、修験者や山伏と呼ばれています。
また、かつて天台宗に属していた際は、門跡寺院として、皇族や公家の方が住職を務めるお寺として皇室と深い関わりを持ちました。
また、このあたりは聖護院八ッ橋や京野菜の聖護院大根、千枚漬けに使用される聖護院かぶらなどの発祥の地ともなっています。
 
金戒光明寺
続いてさらに東に進むと見えてくるのが、法然上人によって開かれました浄土宗大本山の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)です。金戒光明寺は1175年法然上人が43歳の時に修行していた比叡山を下り、苦難にあえぎ修行を行う余裕のない人々を救うため、新たな宗派を創設すべく開かれたお寺で、浄土宗として最初に作られた寺院です。

浄土宗は民衆に「阿弥陀如来に「南無阿弥陀仏」と祈りを捧げることにより、来世では極楽浄土に生まれることが出来る」と説いた宗派です。金戒光明寺は本日最後に訪れる知恩寺と共に七大本山に数えられる浄土宗の中核をなすお寺です。
 
さて、金戒光明寺は新撰組との関係性が深いお寺としても知られています。
幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、とても荒れた時代でした。そのため江戸幕府は1862年治安維持を目的として「京都守護職」と呼ばれる新しい組織を作ります。その京都守護職に任命されたのが会津藩で、藩主松平容保(まつだいらかたもり)公は家臣1000名を率いて上洛し、こちらの金戒光明寺を本陣としました。

金戒光明寺は城郭のような堅固な構造しており、東海道の起点である三条大橋からも近く、1000名の兵士が駐屯出来る宿坊がありました。そして京都守護職の支配下に置かれたのが新撰組で、浪士達に京の都の治安維持にあたらせました。
 
ここで問題です。
徳川幕府は江戸に幕府を開きましたが、天皇がいらっしゃる京都は遠く、豊臣恩顧の西国大名にもにらみをきかせる必要がありました。そのため京都防衛の要として作られたのは二条城ですが、もし二条城が落城した場合、第二の二条城としてとあるお寺を選定していたと言われています。さて、そのお寺はどこでしょう?
 
1.東本願寺
2.知恩院
3.仁和寺
 





正解は2番の京都東山にある知恩院です。知恩院は金戒光明寺と同じ浄土宗総本山のお寺で、同じく立派な門に石垣がある城郭のようなお寺です。当サークルでは第2回目で訪れました。
 
続いて建物の解説ですが、金戒光明寺の石段を登った上にある立派な門は山門と呼ばれ、1860年に再建されたものです。間口は14.7m、奥行きは8.4m、高さは23.2mあります。
楼内には「釈迦如来」「文殊菩薩」「普賢菩薩(ふけんぼさつ)」の「釈迦三尊像」と「十六羅漢像(じゅうろくらかんぞう)」が安置されています。
お釈迦様の16人のお弟子さんのことを「十六羅漢」といいますが、第一番目のお弟子さんは賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)と呼ばれ、日本では撫でると体の悪いところが治るとされる「撫で仏」として、東大寺大仏殿の入口の他、各地のお寺に安置され参拝者に親しまれています。

また山門の楼上には「浄土真宗最初門(じょうどしんしゅうさいしょもん)」と書かれた勅額が掲げられていますが、こちらは一休さんのお父さんである後小松天皇の御宸筆によるものです。
浄土真宗と書かれていますが西本願寺や東本願寺の浄土真宗のことを表すのではなく、法然上人が「浄土の教え」=「如来の真実の教え」を最初に広められた念仏発祥の地との意味が込められています。
 
次に山門をくぐって右手に見えてくる建物が阿弥陀堂で、1605年に豊臣秀頼公により京都方広寺の京都大仏殿建立の際の余った資材を用いて再建された金戒光明寺で最も古い建物です。方広寺は第一回寺社仏閣めぐりの際に訪れました。当初は南向きでしたが、1678年に西方極楽浄土の方向である西向きに改修されました。堂内には恵心僧都により作られたご本尊の阿弥陀如来像が安置されており、像内には彫刻に使用したノミが納められていることから「ノミおさめ如来」と呼ばれています。
 
そして阿弥陀堂を正面に見ながら左手をご覧いただくと大きなお堂があります。こちらは法然上人のお姿を像として安置されている御影堂(みえいどう)です。御影堂は間口が26.3m、奥行きが23.5m、高さが21.8mあり昭和19年に再建されました。中に安置されている法然上人の御尊像は、法然上人が自ら刻まれたものとされ、法然上人75歳の時のお姿と言われています。
 
それではこのあたりで中編は終了し、続きは「後編」に記載したいと思います!