稽古場からの挑戦状——俳優が本当に向き合うべきこと
イントロダクション:稽古が要求する「本気度」
稽古の目的と要求される覚悟
座長が稽古の場で俳優陣に求めているのは、単なるセリフの暗記や段取り付けではない。それは、俳優が陥りがちな**「無意識に芝居できちゃう」「適当にやれてる」状態からの脱却**である。
「家ですごい考えて来なさいと言っているわけではない」としながらも、稽古の場にいる3時間に関しては、1回1回をオーディションと同じ「本気」の集中力で臨むよう要求される。もしこれが自身が入りたい劇団や出たい作品のオーディションであれば、今の芝居をするのか?——この厳しい問いかけが、稽古場に緊張感をもたらす。
核心概念1:「ビアネガティブ」(やめる演技)の徹底
「加える」行為が可能性をゼロにする
多くの俳優は、芝居に変化を加える際に「いつもと違うことをやろう」としてしまう。座長は、これこそが結果的に変わらない芝居を生む原因であると断言する。俳優がすべきは**「何かを加える」ことではなく、「何かをやめる」こと**——すなわちビアネガティブを行うことだ。
何かを加えた瞬間、可能性はゼロになる。例えば、いつもと違う袖から出ることは「違う袖から出ることを加えた」行為であり、「いつもと同じ袖から出ることをやめた」わけではない、と指摘される。
グロトフスキの「ビア・ネガティバ」との共鳴
この「やめる」という概念は、ポーランドの演出家イェジー・グロトフスキが提唱した「貧しい演劇」の思想と深く共鳴している。グロトフスキは、音楽・衣装・装置・化粧といった要素を捨て、不要な演劇的要素を排除することで、俳優と観客の関係という演劇の本性そのものを浮かび上がらせようとした。
彼の「貧しい演劇」は、綜合芸術を目指す「持てる(富裕の)演劇」を批判し、モダニズム的な引き算の考え方を演劇に導入した。これはまさに「加えること」ではなく「削ぎ落とすこと」によって演劇の本質に到達しようとする試みだった。
グロトフスキは、ヨーガを採り入れた独特の俳優訓練法とともに、俳優の肉体と声のみによる緊迫した演劇を創出し、その禁欲的にして能弁な演劇は、現代演劇の一旗手として国際的に評価された。
座長が提唱する「ビアネガティブ」は、このグロトフスキの思想を現代の稽古場に実践的に落とし込んだものと言えるだろう。「何を演じるか」ではなく「何をやめるか」——この逆説的なアプローチこそが、俳優の真の可能性を開花させる。
やめるべき三つの無意識な行動
稽古で頻繁に指摘された、俳優が能動的に「やめる」べき無意識の習慣は以下の通りである。
1. セリフを言うことをやめる
俳優は「書いてるから」「覚えてるから」という理由で反射的にセリフを言ってしまう。この「言いたいが強い」状態をやめなければ、呼吸、体の向き、距離、表情、ボディランゲージといった本来出てくるはずの要素が、毎回違う状態として生まれる機会が失われる。
2. 相手の反応を受け取る・聞くことをやめる
日常生活では、私たちは相手の反応やセリフを聞くか聞かないかを判断している。しかし、舞台上では「全部受け取る前提でやってる」ため、演技に変化が起きない。入り口で全てを受け取っているため、その後のビアネガティブが意味を持たなくなってしまう。
3. 無意識の「加える」意図をやめる
写真を撮ることをやめた結果、キャップをしたままになるなど、やめるプロセスによって結果的に無限の可能性が生まれる。重要なのは、キャップをしたままにしようという「加える意思」ではなく、「写真を撮ることをやめる」というプロセスに焦点を当てることだ。
「やめること」の心理的障壁
俳優にとって「やめること」が難しいのは、それが**「怖い」行為だから**である。人に見られ、評価され、判断されるというイレギュラーな舞台上の状況下では、「何かをやっている方が安心できる」という文化の中で育っているため、人前で「やめる」ことは勇気を伴う。
ビアネガティブの具体的なアイデア:重力の比喩
座長は、いつもの動きを「やめる」ための具体的なアイデアとして**「重力の比喩」**を提示した。
「いつもと違う出方をしよう」と意識的に加えるのではなく、自身の体に**「重力が倍かかっている」と仮定し、「いつもの出方をやめる」**だけで、出方は自動的に変わる。これは、物理的制約を通じて無意識の行動パターンを破壊する、ビアネガティブの実践的な応用である。
核心概念2:「オトカズ」と身体・言葉の分離
芝居のサイクル「動きの4原則」とオトカズ
クオリティの高い芝居はリズム(ビート)によって成立する。これを座長は**「オトカズ」**と呼ぶ。演技のサイクルには「動きの4原則」——準備、オトカズ、抑える、継続——があり、セリフを言うことは「抑える」のフェーズに該当する。
スタニスラフスキーからメソッド演技へ:演技理論の系譜
ポーランドのイェジー・グロトフスキは、スタニスラフスキーを自らの演劇活動の主要な影響源のひとつとしている。スタニスラフスキーの影響を受けたリー・ストラスバーグらアメリカの演劇陣によって、1940年代にニューヨークの演劇で確立・体系化された演技法がメソッド演技法である。
スタニスラフスキーのシステムは、経験の真実(役者は真の感情を覚えなければならない)、環境の研究(役者は登場人物の実生活を学ばなければならない)、「今ここで」演じること(いかなる行為も舞台上で生まれる)という原理に基づいている。
しかし、座長が提唱する「オトカズ」と「ビアネガティブ」は、感情の追体験や内面への没入ではなく、むしろ身体のリズムと「やめる」という行為に焦点を当てている点で、メソッド演技とは一線を画す。
ストイカ(停止)の欠如がオトカズを殺す
セリフの前に**ストイカ(停止)とオトカズ(リズム)**が存在しなければならない。
稽古で指摘された最大の問題は、俳優がビアネガティブを行った後の動きとセリフ(言葉)が分離し、次の行動に移るためのストイカがないことだ。動きに関するビアネガティブを行い、止まったとしても、言葉は止まらずに出てしまうため、身体とセリフが「音ゲーみたい」に見えると厳しく批判される。
ある行動(例えば2歩歩くことをやめる)をした後、それを継続してしまうと、結果的にその行動を「やめていない」ことになる。次のオトカズを生むためには、必ず**ストイカ(停止)**を挟む必要がある。
個別指導分析:無意識の習慣と表現芝居の排除
座長は、各俳優の演技の癖を詳細に分析し、野球の比喩や演劇史の概念を用いて具体的な修正点を提示している。
リク:テンプレートからの脱却と両極端の選択
課題: 「セリフはどう言うかが大事」という傾向が強い**「ザ・テンプレートの俳優」**と名付けられている。無意識にセリフが読めてしまう。
分離: 小さな声でセリフを言っても、体が伴わない(その距離にいることをやめない)ため、セリフだけを重視していると指摘される。
ビアネガティブの傾向: 受け取る/受け取らないの選択肢が**「全部受け取るか全部受け取らないか」**という両極端に偏っている。
比喩: 投げているボール(芝居)は「ずっと同じボール」であり、見切られている(撃たれる)。
ケータ:完璧主義と「説明」としての表現
課題: ミスや指摘を恐れる完璧主義の心理から、地味に小さく隠れて演技している傾向がある。
表現芝居の批判: 嫌なことがあった際に、日常生活で「やめる」のではなく、**サブテキスト(感情や思考)が「全部表に出る」芝居になっており、これはお客様への「説明」**になっていると批判される。
歴史的評価: このような表現芝居は「1900年以前のロシア」や「職人芸の芝居」であり、リアリズム劇ではないと痛烈に指摘される。
身体性: 下半身に力が入りすぎており、幅が狭いとグラグラする。また、移動をやめないため、動き続けている。
姿勢: 常に「カッコつけている」ため、ダサいところを見せないように隠れている。
マコリン:泥棒芝居とアイデアの継続
課題: 相手に何かをしよう、受け取ろうという意識が強く、**「泥棒芝居」**になっている。
振り芝居: 眼球から動く(先に目が動く)ため、相手に「お芝居してる」と感じさせる「振り」の芝居になっている。
アイデアの継続: 一度出たアイデア(動き)を継続してしまい、「やめる」連続になっていない。
カワムラ:ビートの単調さと「言う」習慣
課題: 常に「誰かに言う」という行為をやめていない。
リズム: 演技のビートが**「全部ワンビート」**で単調である。セリフを待つことすらやめられていない。
ポンキチ:重心の揺れと低レベルの変化球
課題: 重心が定まらないままセリフを言ってしまうため、小刻みに揺れてボールに変な回転がかかる。
変化球依存: ストレート(素直な表現)を投げず、フォークボールやムービングファストボールといった変化球ばかり投げているが、その曲がりが早く(見え透いている)ため、2軍、高卒1年目のレベルだと例えられる。
呼吸: 細かい芝居はするのに、息を殺しているため「すげえ嘘っぽく見える」。胸式呼吸を使っていない。
キタオウジ:重心の固定と角度の欠如
課題: 重心が固まっており、常に右手が上にあるなど偏りがある。
首の角度: 首の角度が変わらない。常に正面を向くことで相手に「聞かせる。聞いてあげるよ?」という**「聞く芝居」**を続けている状態。
聞かせる技術: 首を落として下を向いてから入ると、相手は「聞かざるをえない」聞かせる芝居ができるため、両方を使い分けるべき。
比喩: 投げている変化球(芝居の癖)はすでに見切られている。
総括:成長の道筋と自己との戦い
指導のレベルと長期的な展望
座長が今要求している芝居のクオリティは、お芝居を10年、15年やっている人に言うべき「くっそ難しいこと」であると自覚されている。しかし、「できないことではない」。
お芝居を始めて5年未満でこのフェーズに来れたら、そっから楽しい——そう激励が送られる。
謝罪の傲慢さと成長の覚悟
演技がうまくいかない時に「ごめんなさい」と言う行為について、座長はそれは謙虚さではなく**「傲慢」**であると厳しく指摘する。稽古は皆で学んでいる場であり、「私、上手くできなかったですよね?」と、自分のせいにして謝るのは、他者にも責任を転嫁しているのと同じだからだ。
真の成長のためには、「泥臭く努力している人間を実は下に見てる」「俺は効率よく行くから」というカッコつけの姿勢を捨て去る覚悟が必要だ。自分のやりたいことに向かって努力している人間を「かっこ悪い」と思っている限り、無意識の習慣(捨てるのが怖い、変わるのが怖い)から抜け出せない。
変化を生み出すための継続的なプロセス
質の高い芝居を達成するためには、「考えて、判断して、やめてみて」というプロセスを繰り返すことが不可欠だ。
「もっと考えて、もっと判断して、もっとやめてみて」
変化とは、まるで、水面に落ちた一滴のインクの波紋のように、意識的な「停止」(ストイカ)から始まり、無意識の習慣を次々と打ち消す「やめる」(ビアネガティブ)の連鎖によって、空間全体のリズム(オトカズ)へと広がっていくものだ。
結び:演技の本質へ
グロトフスキが「貧しい演劇」で追求したのは、俳優と観客とのあいだの人間的なかかわりあいをめぐる微細な探究であり、「自然な」行動の過程では曖昧にされたままの真実をあらわにする演劇だった。
座長が提唱する「ビアネガティブ」と「オトカズ」は、この探究を現代の稽古場において実践する方法論である。加えることではなく削ぎ落とすこと。やることではなくやめること。この逆説的なアプローチの中にこそ、演技の本質が宿っている。
俳優は、自らの無意識の習慣と対峙し、「やめる勇気」を持つことで、初めて真の表現の自由を手に入れる。それは容易な道ではない。しかし、その先にある演技の豊かさは、あらゆる困難を乗り越える価値がある。
「もっと考えて、もっと判断して、もっとやめてみて」——この言葉を胸に、稽古場での探究は続いていく。




