第8回京都!奈良!寺社仏閣めぐり活動報告(その2)

京都!奈良!寺社仏閣めぐり
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第8回京都!奈良!寺社仏閣めぐり活動報告(その1)からの続きとなります。

さて、お昼ご飯を食べた後は、西大路通の向かい側にある敷地神社(わら天神)へ。
しかし、雨が降り出して、しばらく敷地神社の中で雨宿り。。。まあ天気は仕方ないですよね。
 
敷地神社のご祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)で御利益は安産、子授、家内安全、災難厄除などとなっております。
 
さて、ここでファースクエスチョンです!
敷地神社は別名を「わら天神」と申しますが、何故わら天神と呼ばれるのでしょうか?
次の3つの中からお選び下さい。
 
1.お守りとして「わら」が授与されるから。
2.お祀りされている神様が麦わら帽子のようなものをかぶったお姿をしているから
3.お参りするだけで、笑顔になれる神社だから
 
 
 
 
 
 
正解は1番のお守りとしてわらが授与されるからでした。
敷地神社は安産の神様として信仰を集めており、お守りとして藁が授与されることから「わら天神」と呼ばれています。授与された藁に節があれば男の子、節がなければ女の子が誕生すると言われています。
 
すっかり天気も回復し、まずは一つ目の桜の名所、平野神社へ。
平野神社は平安京遷都と同時期に創建された神社です。本殿は江戸時代初期に建てられた4つの本殿が2棟ずつ連結された形式となっており「平野造」とよばれ、国の重要文化財に指定されています。
 
正面から見て一番右手の第一殿から順番に今木皇大神(いまきすめおおかみ)第二殿には久度大神(くどのおおかみ)第三殿には古開大神(ふるあきのおおかみ)第四殿には比売大神(ひめのおおかみ)がお祀りされています。
 
また、平野神社は桜の名所として有名で、境内には60種類400本の桜が植えられています。そのため早咲きの桜から遅咲きの桜まで約1ヶ月間さまざまな桜を楽しむことができます。(当日は主に八重桜きれいに咲いていました。)
4月10日(月)には桜花祭が開催され200名の時代装束に身を津つんだ行列が氏子地域を練り歩きます。一般の方も参加可能ですので、もしよろしければご参加下さいね。
 
また、平野神社はKing & Princeの平野紫耀さんファンの聖地となっており、平野君の活躍を願うメッセージを書いた絵馬がたくさん飾られています。(ガイドありがとう。Yさん)
 
さて、さて、平野神社の次は、御土居へ。
御土居はその昔、豊臣秀吉公により作られた京都を守るために作られた土塁です。全長は約22.5kmあり、北端は上賀茂神社の南側にある加茂川中学校付近、東の端は河原町通り、南の端は東寺の南側、西の端が本日出発した円町駅付近となります。
ほとんどが取り壊されていますが、いくつか土塁が残っている場所があります。
また、かつて御土居と各地へ通じる街道が交差する地点を「口」と呼び、現在でも「鞍馬口」や「粟田口」「丹波口」や「荒神口」として地名に残っています。
 
御土居の後は、北野天満宮へ
北野天満宮は全国約12,000社の天満宮や天神社の総本社です。
ご祭神は菅原道真公で全国の受験生から学問の神様として信仰を集めています。
それでは北野天満宮の歴史についてご説明したいと思います。
 
北野天満宮は947年、神様のお告げにより平安京の天門(北西)の方角である北野の地に
菅原道真公をお祀りし創建されました。その後藤原氏により社殿の造営が進められ、987年には一条天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念されると共に、天皇より「北野天満大自在天神」の御神号を賜り、道真公は「天神さま」としてお祀りされることになりました。
 
その後も代々の皇室や足利将軍家、豊臣家からも信仰を受け、豊臣秀吉公は1587年に北野天満宮で北野大茶会を催されました。江戸時代に入ると菅原道真公の博学にあやかり、寺子屋などで道真公の御神影が掲げられ、学問の神様として信仰を集めることとなりました。
 
1607年に豊臣秀頼公により造営された北野天満宮の御本殿は国宝に指定されています。
御本殿は「本殿」と「拝殿」の2棟を一体化しその間に「石の間」と呼ばれる一段低い建物を設けた「権現造」となっており、日光東照宮と同様の形式となっております。
 
屋根は檜の皮を葺いた檜皮葺(ひわだぶき)で複雑な屋根構造から「八棟造(やつむねづくり)」とも呼ばれており、唐破風(からはふ)や黄金の装飾、緻密な彫刻が施された絢爛豪華な桃山建築として大変貴重な建築物です。
 
余談ですが、天満宮の牛は地面に伏せているお姿が一般的ですが、拝殿には一頭だけ立ち姿の牛がいますので、是非探してみて下さいね。
 
また、御本殿の北側には「御后三柱(こうのみはしら)」と呼ばれる御神座があり、菅原道真公のご先祖様にあたる天穂日命(あめのほひのみこと)とおじいさまの菅原清公公(すがわらのきよきみ) お父様の菅原是善公(すがわらのこれよし)がお祀りされており、その昔天満宮の参拝は「御后三柱」にも礼拝することを常としていましたので、是非皆さまもご参拝下さい。
 
また、本殿の手前の梅は創建以来代々受け継がれている「飛梅」で、道真公がご自宅でお育てになっていた紅梅を接木により現代まで絶やさぬよう守られてきました。
この飛梅には次のような伝説があります。901年菅原道真公は藤原時平公の讒言により九州太宰府に左遷されることになりましたが、道真公は出発前に梅の花に向けてこのような歌をお読みになりました。
 
「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」
 
こちらの歌の意味は
東の風が吹く春になったら、香りを太宰府まで届けておくれ、梅の花よ
主がいないからと言って春を忘れないでおくれ
という意味です。
その歌を聴いて梅の木は寂しくなったのか、なんと道真公を追いかけて九州まで飛んでいったと言われています。その梅は現在も太宰府天満宮で樹齢1000年を超えても、元気に花を咲かせており、参拝者を楽しませています。
他にも北野天満宮の境内には50種類1500本の梅の木が植えられており、梅の名所としても有名です。
 
さて、ここで問題です。こちらの飛梅伝説ですが、実は道真公のご自宅には梅の他に桜と松も植えられていました。桜は道真公が九州に行ってしまうと悲しくて枯れてしまったそうですが、松はどのような行動をしたでしょうか?
次の3つからお選び下さい。
 
1.道真公が嫌いだったため、自宅から動かなかった。
2.途中まで追いかけていったが途中で力尽きた。
3.勢い余って地球を一周し、再び自宅に戻った。
 
 
 
正解は2番の途中まで追いかけていったが途中で力尽きたでした。松は現在の神戸市須磨区あたりで力尽きて根を下ろしたとのことで、現在でもその辺りは飛松町と呼ばれています。
 
また、重要文化財の中門には江戸時代初期に後西天皇(ごさいてんのう)の御宸筆による「天満宮」の勅額が掲げられています。
また、中門は別名を「三光門(さんこうもん)」と申します。三光とは「太陽」と「月」と「星」を表すとされ、門の下からのぞいていただくと「日の出」「日の入り」「三日月」の彫刻が施されているのがご覧いただけます。「星」だけは彫られていませんが、夜になるとこの門の上に北極星が輝くことから「三光門」と呼ばれています。
 
最後に天満宮と牛の関係について、ご説明したいと思います。全国の天満宮に参拝に行きますと地面に伏せた牛をお見かけすると思います。こちらは道真公が丑年のお生まれであったことが関係しています。
では、何故地面に伏せているのか?特に気にしたことは無かったかもしれませんが、調べるとちゃんと意味がありました。道真公は太宰府で御生涯を閉じられた際、「私の体は人力で引かせず、牛に引かせて牛の行くところに埋葬して欲しい」との御遺言を残されました。その後遺言に従い、ご遺体を牛車でお運びする途中で牛が地面に伏せて動かなくなった場所に埋葬されたそうです。それの場所こそが太宰府天満宮の場所です。
また、牛の伏せたお姿はその時の様子を表しており、いつの頃からか撫でると御利益がある「撫で牛」として、参拝者に親しまれるようになりました。北野天満宮の境内にもたくさんの撫で牛がいらっしゃいますが、特に御利益のあるのが境内の北西にある牛舎にお祀りされている牛で、北野天満宮で最も古く「一願成就の撫で牛」と言われていますので、是非ご参拝下さい。実際すぐそばには鈴なりの絵馬が飾られています。
たくさんの方に撫でられて、小さくなってしまっていますが、それだけ多くの方の願いを聞いて来られたのだと思います。
 
それでは、北野天満宮のご案内の終わりに菅原道真公が残された歌をもう一つご紹介したいと思います。
 
「心だに 誠の道にかなひなば いのらずとても 神やまもらむ」
 
現代語に訳しますと、
「誠の心で行動していれば、神様は祈らなくても守ってくれるよ。」という意味です。
とても良い歌だったので、日々の生活の中でも心がけたいと思い、皆さまにご紹介しました。
                                       その3に続く…