第6回寺社仏閣めぐり活動報告(中編)!

京都!奈良!寺社仏閣めぐり
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それではお昼ご飯から中編スタート!
今回は柿の葉寿司で有名な「柿の葉寿司中谷本舗いざさ」さんへお邪魔しました。
メニューは「うなぎ笹巻きちらし寿司天ぷらセット」をいただきました。
とっても美味しかったです!
 
さて、時々「いつもどうやってお店を見つけているのですか?」と聞かれるのですが、
それは、現地でグーグルマップ片手に歩いて見つけています。観光地だと土日は大人数では予約が取れないことが多いので、大人数が入りそうな良さげなお店を見つけたら、お店の方と交渉し、開店時間に合わせて予約させていただけないかどうか交渉しています。開店時間であれば大体OKしていただけるので、あとは細かい調整をして予約完了です。
毎回お昼ご飯の場所を見つけるのは結構大変なのですが、皆さんに喜んでいただけるよう妥協せずにいろんなお店を探索しています。また良かったら、お読みの皆さんも行ってみて下さいね。(お店と私個人は何の関係もございません。)
 
さて、満腹になったら午後の運動です。奈良公園からスタート。
奈良公園は明治13年1880年2月14日に開園され、総面積は511ha、甲子園球場約130個分の大きさがある広大な都市公園です。
公園内には、東大寺、興福寺、春日大社の他たくさんの寺社仏閣が点在し、年間1,300万人もの人が訪れています。
 
そして、公園のあちらこちらにいるのが鹿ですが、全て野生の鹿で天然記念物に指定されています。なぜこんなにも鹿が多いのか?それは奈良の人々に大切に保護されているからなのですが、それは春日大社と密接な関係があります。
春日大社のご祭神、建御雷命(たけみかづちのみこと)は、ある場所から白い鹿に乗って奈良に来られたとの伝承があり、神様が乗って来られた神聖な動物として保護されています。
 
さて、ここで問題ですが、建御雷命は元々どこから来られたでしょうか?
ヒントはあるサッカーチームです。
 
 
 
 
 
 
 
 
正解は茨城県鹿島市にある鹿島神宮です。鹿島神宮でも神様の使いとして鹿が大切にされており30数頭の日本鹿が飼育されています。また、サッカークラブの鹿島アントラーズの
マスコットキャラクターも鹿がモチーフになっています。
 
また、鹿の頭数ですが、2022年7月16日現在1182頭の鹿が生息しており、雄鹿が204頭、雌鹿が747頭、子鹿が231頭となっています。雄鹿が少ないのは雌に比べて寿命が短いためで、雄で15年、雌で20年が平均的な寿命となっています。
 
さてまたまた問題です。鹿の頭数調査は奈良の鹿愛護会により毎年7月に実施されていますが、どのようにして鹿の頭数を数えているでしょう?
三択です。
1.目視で数えている。
2.AIを搭載したドローンで空から自動で数えている。
3.生まれた時にGPSのタグを足に付けるので、数えるのは簡単。むしろいつでもカウント可能。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
答えは、1番の「目視で数えている」でした。
鹿の習性を利用しているのですが、鹿は昼間は西側の平地(主に奈良公園)で過ごし、夜になると東の山に帰って行きます。(たまに帰らない鹿もいますが。。。)
その習性を利用し、早朝に奈良公園の西の端に40名ほどが南北に並び、東に向かって歩きながら、通過する鹿の数を目視で数えています。(いや本当です。)
 
また余談ですが、鹿にもモテル鹿とモテナイ鹿がいるようで、角が立派なほどイケメンとされているそうです。普通のイケメン鹿は1頭で5頭の雌に囲まれるそうなのですが、立派な角を持つイケメン鹿は40頭~50頭の雌鹿に囲まれるそうです。ちなみにモテナイ鹿は少し離れたところで雄だけで群れているそうです。ああ悲しい。。。
 
さて、参加された方も鹿の写真を撮ったり、鹿せんべいをあげたり、服を食べられたりしながら思い思いの時間を過ごされていました。
 
それでは、東大寺の境内へ入って行きましょう!
まずは東大寺の正門となる南大門です。屋根の上に「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられていますが、こちらは東大寺を創建された聖武天皇の写経から文字を写したものです。
ところで、皆さま東大寺の宗派ってご存じでしょうか。答えは華厳宗(けごんしゅう)なのですが、天台宗や真言宗、浄土真宗は有名ですが、「華厳宗」って聞いたことないですよね。皆さまがご存じの宗派の多くは平安時代以降の仏教で、奈良の寺院は奈良時代の仏教の宗派が多く、他にも唐招提寺は「律宗」法隆寺は「聖徳宗」となっています。
宗派でお寺をグループ分けすると、このお寺はこのお寺と同じグループだったのか!と結構楽しかったりしますので、良かったらお試し下さい。
 
さて、本筋に戻りますが、現在の南大門は東大寺中興の祖である重源上人(ちょうげんしょうにん)により鎌倉時代初期の1199年に再建されたもので、国宝に指定されています。高さは基壇の上から25.46mもあり、18本の円柱により支えられています。
中国の宋の国から伝わった大仏様(だいぶつよう)と言われる建築様式で建てられており、天井板が張られておらず、屋根裏が見えることと、貫と呼ばれる柱を貫通する水平材を多用して堅固な構造としていることが挙げられます。
 
そして、門の左右にいらっしゃるのが、南大門を守護されている国宝の木造金剛力士像です。高さは8.4mあり、門に向かって右側に口を閉じた吽形(うんぎょう)、左側に口を開けた阿形(あぎょう)が安置されています。阿形が息を吐き、吽形が息を吸い込むことから息を合わせることを「阿吽の呼吸」と呼ばれています。
筋肉隆々で今にも動き出しそうなほどリアルな金剛力士像は、1203年にわずか「69日」で完成したとされており、運慶、快慶、湛慶(たんけい)、定覚(じょうかく)の4人の大仏師により作成されました。なぜこんなにも短期間で完成したのか?秘密は「寄木造り」と呼ばれる作成方法にあります。「寄木造り」は像を部材ごとに分業制で作成し、完成した部材をプラモデルのように組み合わせる手法で、これにより巨大な像を短期間で制作することが出来ました。
 
また、南大門の柱にはよく見るとたくさん穴が開いていますが、こちらは1567年に発生した松永久秀と筒井順慶・三好三人衆の戦いの際の銃撃跡と言われております。
 
続いて、門の北側の両サイドには狛犬ならぬ、「狛獅子」が門を守っており、1196年に作成されたもので重要文化財に指定されています。通常は金剛力士像と同じく阿吽の呼吸をしていますが、こちらは両方とも口を大きく開けており、このような作例は京都の清水寺の狛犬にも見られます。
 
続いて、南大門を潜ったら左手前にある「東大寺総合文化センター(東大寺ミュージアム)」の入り口へ行ってみましょう。
 
そこには巨大な手のひらがあるのですが、こちらは大仏さまの右手と左手です。
大仏さまの手は縦が約3m中指の長さは約1.5mあり、右手は「施無畏印(せむいいん)」と呼ばれ、人々から恐れる気持ちを吸取ってくださり、左手は「与願印(よがんいん)」と呼ばれ人々の願いを叶えてくれます。
ちなみに、サークルでは途中何回か集合写真を撮るのですが、今回は東大寺では皆さん大仏ポーズでした。笑笑
 
続いて、東大寺総合文化センターと勧学院の間の道を西に進み、「戒壇院(かいだんいん)」に行きました。
こちらは、出家される方が僧侶になる儀式「受戒」される場所として755年に鑑真和上を招いて創建され、ここから多くの僧侶が巣立っていきました。現在の建物は1733年に再建されたもので、県指定重要文化財に指定されています。(今年の夏頃まで修復工事中)
 
さて、一行は戒壇院の西から北へ抜け、大仏池の西側を通り、転害門(てがいもん)へ。
こちらは757年~765年に建立された東大寺創建時の建物で、東大寺で起こった2回の兵火でも消失を免れました。高さは基壇の上から約10mあり、東大寺の鎮守社手向山八幡宮の祭礼「転害会」の際御旅所になることから転害門と呼ばれています。
こちらも国宝に指定されており、24時間無料で拝観可能です。
また、転害門は害(災い)を転じる門ですので、何か嫌なことがあった方は通ってみてはいかがでしょうか?
 
続いて、皆さまよくご存じの「正倉院」を見に行きました。
ただし、正倉院は宮内庁の管轄で平日の10時~15時のみ公開されており、今回は木々の隙間から拝観しました。
正倉院の名前は「正倉」と呼ばれる蔵に由来しており、こちらの正倉は天平時代に作られた建物で国宝に指定されており、間口が約33m、奥行きが約9.4m、床下が約2.7m、高さが約14mあります。以外と大きいんですね。高床式で校倉造り(あぜくらづくり)となっており、内部には聖武天皇ゆかりの宝物が納められていました。現在、宝物は正倉の東西に近代に建てられた宝物庫に保管されており、毎年秋に開催される正倉院展の際に奈良国立博物館で一般公開されています。
 
その後、東大寺境内をぐるっとまわり、大湯屋(おおゆや)へ。
こちらは鎌倉時代に建てられた浴場で重要文化財に指定されています。
内部は3分割されており、最初の部屋が脱衣所、2つ目の部屋が浴室、3つ目の部屋が窯場となっています。浴室には鉄製の湯船(こちらも重要文化財)が置いてあり、下にはスノコを敷きかけ湯をしたそうです。僧侶だけではなく、一般の人も利用出来たようで、銭湯としても使用されたようです。
 
さて、やっと参りました大仏殿。東大寺って広いですね。(いや遠回りしすぎ。)
大仏殿は東大寺の本堂にあたる金堂で、ご本尊をお祀りするための建物です。現在の大仏殿は1709年に再建された3代目代目で、国宝に指定されています。間口が約57m、奥行きが約50m、高さが約49mあり、近代の木造建築を除けば、世界最大級の木造建築物です。ちなみに創建当初の大仏殿は間口が現在の建物の1.5倍程ありました。建物正面中央には観相窓(かんそうまど)と呼ばれる扉が付いており、開けると大仏のお顔を外から見ることが出来ます。また、屋根の上には左右に金色の飾りが乗っていますが、これを「鴟尾(しび)」といい魚が水面から尾びれを出した状態を表しております。
このことから屋根の水平面が水面を表し、建物自体は水面下になるため、水中の建物は燃えないとの意味を込めて火災除けの願いが込められています。鯱(しゃちほこ)も鴟尾と同じように火災除けのお守りとして設置されています。
 
そして、大仏殿の正面にある金銅八角灯籠は東大寺創建当初のもので国宝に指定されています。高さは464cmあり、灯籠の扉4面には4頭の獅子が、残りの4面には様々な楽器を奏でる菩薩が浮き彫りされています。
 
また、大仏殿の左側には賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)が安置されています。
お釈迦様の弟子の一人で、日本ではなで仏として知られ、撫でると病気除けの御利益があるとされています。
 
それでは、大仏殿の中に入りましょう。
東大寺のご本尊毘盧舎那仏座像(びるしゃなぶつざぞう)は聖武天皇の発願により、745年に作成が開始され、7年の歳月をかけ752年に完成しました。奈良の大仏さんの愛称で親しまれ、国宝に指定されています。聖武天皇が即位された8世紀前半は天然痘の大流行や、干ばつ、饑饉が続き、大地震も発生しました。そんな時代背景の中で聖武天皇は社会不安を取り除き、国を安定させたいとの思いから、大仏の鋳造を行われました。盧舎那仏は東大寺の宗派である華厳宗では宇宙の中心の仏様とされ、密教では大日如来と同一の仏様とされています。制作には延べ260万人が動員され、大仏殿と大仏の制作費用は現在の貨幣価値で約4600億円と言われています。
台座の高さは約3m、像の高さは約15mあり、2度の補修が行われおり頭部は江戸時代、体は鎌倉時代の補修となりますが、台座や胴体の一部は天平時代の物となります。
 
ここで、大仏様のお顔に注目していただきたいのですが、まず髪型は螺髪(らほつ)といいまして髪の毛が右巻きに丸まった状態を示します。奈良の大仏様の場合は492個の螺髪があり、9個は欠落しているため、実際は483個あります。次におでこにある、ほくろのような物は白毫(びゃくごう)といいまして長く白い毛が右巻きに丸まったもので、伸ばすと4.5mもあります。白毫は光を放ち世界を照らすとされています。
大仏さまの後ろにある金色の部分は「光背」と呼ばれ仏様の威光を表現されたものです。
 
次に大仏の左右にいらっしゃる脇侍は、向かって右側が如意輪観音座像、左側は虚空蔵菩薩座像です。大仏さまは銅で作られていますが、脇侍はいずれも木造の寄木造りです。
 
また、大仏殿には四天王像が安置されていますが、北西の広目天と北東の多聞天は完成していますが、残りの2体、持国天と増長天は未完成で頭部のみが安置されています。
 
大仏殿を存分に楽しんだ後は、大仏殿の東側にある相輪塔へ向かいました。

また長くなるので、続きは後編へ