第6回寺社仏閣めぐり活動報告(前編)!

京都!奈良!寺社仏閣めぐり
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それでは、第6回寺社仏閣巡りの活動報告をしたいと思います。
今回のコースはこちらです!
 
近鉄奈良駅集合〜行基像〜興福寺(北円堂〜三重塔〜南円堂〜中金堂〜五重塔〜国宝館〜東金堂)〜お昼ごはん〜東大寺(南大門〜戒壇堂〜大仏池〜転害門〜正倉院〜大湯屋〜大仏殿〜相輪塔〜東大寺猫段〜俊乗堂〜奈良太郎〜四月堂〜二月堂〜三月堂〜経蔵)〜手向山神社〜若草山〜一言主神社〜春日大社〜浮御堂〜猿沢池〜高速餅つき中谷堂〜近鉄奈良駅付近にて16時30分頃解散

このブログは上記コースどおり辿っていただきながら、ご覧いただくと簡単ですが、観光ガイド風(笑)になりますので、もしよろしければご利用下さい。
※内容はあくまでも「一説」とご理解いただければ幸いです。
 
今回は20名の方にご参加いただき、第2回目の奈良のコース(前回は信貴山朝護孫子寺)となりました。みなさん、お気づきでしょうか。これまでのコースは第一回目から、京都・京都・奈良・京都・京都・奈良となっていることを...
そして次回は、そう京都です!その次も京都の予定です。
たまたま、そうなっただけなのですが、面白かったので、書いてみました。
 
さて、本題に入りましょう!
今回の集合場所は近鉄奈良駅の改札前にいらっしゃる「せんとくん」の前にしました。
今では見慣れた「せんとくん」ですが、最初登場した時は結構衝撃だったのを覚えています。
「まんとくん」や「しかまろくん」も可愛さで頑張っていますが、やはり奈良のゆるキャラと言えば「せんとくん」だと思います。(知らんけど)
 
では本当に本題に入ります。
まずは、近鉄奈良駅の地上にいらっしゃるのが、行基さんです。
行基さんは飛鳥時代から奈良時代初期にかけて活動したお坊さんで、近畿地方を中心に仏教の布教活動を行いつつ、多数の寺院やため池や橋を作るなど土木事業も熱心に行われました。その功績が認められ、聖武天皇より東大寺造立の責任者として招聘され、現在もその東大寺の方向を見つめていらっしゃいます。
 
次に、目の前にあるのが、東向き商店街。商店街自体は南北に作られていますが、何故か名前は「東向き」。これはかつて商店街の東側には興福寺の伽藍が立ち並んでおり、人家は全て西側に「東を向いて」立ち並んでいたことから東向き商店街と名付けられたそうです。
 
そして、商店街の中から興福寺の境内へ入ります。
まずお出迎えいただけるのが、北円堂です。
現在の建物は鎌倉時代の1210年に再建されたもので国宝に指定されています。
興福寺に現存する建築物の中でも最も古い建物で、法隆寺夢殿と同じく上から見ると八角形をした八角円堂となっています。内部には国宝に指定されている大仏師「運慶」が中心となり作成された木造の弥勒如来座像が納められています。
 
次に訪れたのが、興福寺の三重塔です。
こちらの三重塔は興福寺境内でも目立たない位置にあるため、あまり知られていませんが鎌倉時代前期の建築で国宝に指定されており、高さは19mあります。
 
早くも国宝の連続攻撃を受けた一行は、南円堂へ向かいます。
南円堂は1789年に再建された八角円堂で重要文化財に指定されており、観音様を巡礼する「西国三十三ヵ所巡り」の第9番札所となっており、内部には国宝の不空羂索観音座像が祀られています。
 
続いて、興福寺で最も目立つ建物、国宝の五重塔へ行きました。
現在の塔は1426年に再建された6代目で、高さは50.1mあり現存する木造の塔としては高さ55mの東寺の五重塔についで「日本で2番目に高い五重塔」です。
奈良を象徴する五重塔として有名で、お釈迦様の骨を納めた墓標である。
 
さて、ここで興福寺の歴史をひとつ。
興福寺は宗派が法相宗(ほっそうしゅう)のお寺で、藤原氏の始祖藤原鎌足とその子藤原の不比等ゆかりの寺院です。藤原鎌足は中大兄皇子、後の天智天皇の腹心として活躍した「大化の改新」の中心人物です。
お寺の歴史は古く、669年藤原鎌足が病気になった際、奥様の鏡王女(かがみのおおきみ)が鎌足の病気平癒を願い、現在の京都市山科区に創建した山階寺(やましなでら)を起源とし、平城京遷都に際し鎌足の子の不比等により移転され現在の位置に造営されました。その後天皇や皇后、藤原氏により堂宇の造営が進み、国家事業としてお寺が拡充されていきました。
 
その強大な勢力は平安時代には大和の国一国の事実上の国主となる程で、京都の比叡山と並び、南都北嶺(なんとほくれい)と呼ばれました。度重なる兵火や火災により何度も消失しますが、その度に再建され力を保持していましたが、明治時代に入ると政府が仏教を廃し、神道を国教とする政策「神仏分離令」を導入し「廃仏毀釈」の対象とされ、存亡の危機を迎えます。広大なお寺の敷地は没収され、奈良公園の一部となり、数々の建物は役所や警察署となりました。
 
さて、ここで問題です。廃仏毀釈によりお坊さんも転職をすることになりましたが、一体どんな職業に転職したでしょう?
 
 
 
 
 
 
 
正解は春日大社の神官となりました。興福寺は春日大社の運営も行っていたことから、多くの僧侶は一旦神職になったのでした。
 
また、皆様の目の前にそびえる五重塔は売却され、一説によるとある値段で買手がつきました。さてその値段は現在の貨幣価値でいくらでしょう?
 
 
 
 
 
 
 
 
正解は約100万円です。当時の金額で250円でした。購入者は燃やして金目の金属類だけ取り出そうとしたそうですが、近隣住民から付近に延焼するため止めて欲しいとの申し出により中止となりました。
その後、廃仏毀釈の風向きは変わり、明治14年頃からは荒れた境内の復興が行われました。平成10年には東大寺や春日大社と共に「古都奈良の文化財」としてユネスコの世界文化遺産に登録され、東大寺と並び奈良を代表する寺院として世界的も有名となりました。
 
さて、五重塔の横にはこれまた国宝の東金堂があります。
1415年に再建された5代目の建物です。興福寺にはかつて中金堂、西金堂、東金堂の3つの金堂があり、西金堂は再建されていませんが、中金堂は平成30年に再建されました。
内部には重要文化財に指定されている、薬師三尊像や国宝の文殊菩座像、同じく国宝の維摩居士座像などが安置されています。
 
そして一行は、興福寺の文化財の収蔵と展示を目的に作られた国宝館に入りました。
中には有名な国宝の阿修羅像や灯籠を担いだ鬼「天灯鬼像」や灯籠を頭に乗せた「竜灯鬼像」の他、奈良時代よりもさらに昔の白鳳時代に作られた国宝の薬師如来像の頭部のみも展示されていますので、皆様も興福寺に訪れた際には是非ご覧下さいね。
 
さて、興福寺を堪能した一行はお昼ご飯を目指して、奈良公園に入って行きます。
まず目に飛び込んでくる洋風建築は奈良国立博物館の本館です。
こちらは明治27年に片山東熊氏(かたやまとうくま)の設計により建築された奈良で最初の本格的西洋建築で重要文化財に指定されています。
 
そして、本館の前にあるが、興福寺宝蔵院跡(石碑)です。(当日は時間が無くパスしました。)
こちらは興福寺の子院「宝蔵院」の跡です。宝蔵院流槍術はここで生まれ、井上雄彦の漫画「バガボンド」では、宮本武蔵は宝蔵院2代目院主「胤舜」と戦い勝利しました。
 
へぇーとなったところで、皆さまお楽しみのお昼ご飯です。
長くなりそうなので、ここで今回は前編・中編・後編に分けたいと思います。
                                それでは中編へ続く